明治30年(1897年) 5月10日 |
兵庫県洲本尋常中学校 開校式 創立記念日と決定 |
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32年(1899年) 4月30日 |
兵庫県洲本中学校と改称 |
34年(1901年) 4月30日 |
兵庫県立洲本中学校と改称 |
36年(1903年) 5月10日 |
津名郡三原郡組合立淡路高等女学校 開校式 創立記念日と決定 |
昭和23年(1948年)
4月1日 |
県立洲本新制高等学校
淡路新制高等学校と校名変更 |
9月1日 |
上記二校を統合
兵庫県立洲本高等学校と
校名変更 |
昭和32年(1957年) |
同窓会60周年 |
昭和34年(1959年) |
校舎改築推進準備会結成 |
昭和42年(1967年) |
同窓会70周年 |
昭和52年(1977年) |
同窓会80周年 |
昭和62年(1987年) |
同窓会90周年 |
平成9年 (1997年) |
同窓会100周年 |
終戦前は卒業時永年会費を納入し会報を発行。
戦後それ等同窓会募金は封緘棚あげにて諸般の活動はストップ状態。
しばらく再建にかかり、校舎改築募金募集の大仕事を抱え本部はその目的達成のために組織づくりに専念した。
東京同窓会・東海支部・京阪神支部の結成
会員名簿・会報の発行に至る。
同窓会割当1千万円の募金遂。
創立70周年と共に校舎改築は全面的に完了。
同窓会設立については、詳しい資料がないため詳細は不明である。唯一の手がかりは、職員として勤務する傍ら、同窓会事務局長を13年間も務めた後、副会長としても本会を支えた、野上憲三郎氏(洲中27期)の手記である。以下は、昭和52年(1977)に発刊された『創立80周年記念誌』に、氏が寄せた「同窓会の歩み」の本文から、部分的修正を加え抜粋し、掲載している。
洲本中学創設の時期は判明していない。担当職員の指示で適当な日時に集まり、雑談を交わす程度だったらしく、1977年当時に最古参だった金田良蔵氏(洲中7期)さえも記憶がないとのことである。野上氏は、一度だけその会合に出席したことがあり、そのときの様子をこう語っている。
「集まる人も数人で、夏のことではあり、葡萄とラムネの馳走で、加集純三先生が接待されたが、校長などは勿論姿も見せなかったし、まあ、寂しいものだった。畠田昌福氏(洲中14期:後の愛媛県知事)が内務省の地方監察で帰省した際も、ささやかな会を催した程度だったらしい。当時、洲本在住の同窓といえば、藤岡陸軍中佐、上宮海軍少佐、島校医、白川久雄県議の諸氏が有名だった。」
戦後、洲中同窓会が名実ともに確立されたのが創立50周年の直前、昭和22年(1947)の秋である。武田清一氏(洲中39期)の談によれば、各期の代表のような人々が会議室に集い、同窓会を新たに発足させようではないか、ということで上宮氏が事務局担当に白川氏を推薦したとのこと。10月に洲中創立50周年記念式典が挙行され、記念講演には大内兵衛氏(洲中5期:東大教授)を招いた。
一方、淡路高等女学校は明治30年に開校の後、明治40年に第1回生34名が卒業し、その夏に講堂で第1回目の同窓会を開き、次のような同窓会歌を作っている。
「曰く、立ち振る舞えば、三熊山風裳すそを払ひ、ふみ読めばちぬの浦波窓に音なふ。」
淡交会創設当初の主役は、松久保ひろ氏、島本なみ氏(高女1期)、松谷たけの氏(高女2期:洲高卒業式に祝辞を欠かさなかった人)で、昭和52年には、昔日を懐かしむ意味から、田中さなゑ氏(高女20期:元洲本市議)を会長、黒田みつゑ氏(高女30期)を副会長として再結成されている。
昭和23年(1948)4月、学制改革により洲本中学は48期生が最後の生徒となり、9月に「県立洲本高等学校」と校名が変更されるに伴って、同窓会も「洲本高校同窓会」と改称した。淡路高女は最後となる43期生まで、3879名の卒業生を輩出した。
5月に米進駐軍の勧告で男女共学が打ち出されていたが、淡路高女側は統合に反対。洲中側は加集音市校長の命で、当時職員だった野上氏が文案作成、服部敬之氏(洲中36期:後の洲高校長)が校正を務め、一夜のうちに統合大賛成の声明文を刷り上げて市内に撒布した。淡路高女の職員、印部すえ氏(高女18期:後の県教育委員長)の多大な協力もあり、7月にはめでたく統合へと進んだ。同窓会も、洲中側と、松谷氏、田中氏、郡もとゑ氏(高女8期)ら高女側との協議により、昭和24年(1949)夏に両会が合流した。
昭和35年、校舎改築に際し、同窓会の組織確立が迫られたため、6月に当時の白川久雄会長名で洲中、高女、洲高からそれぞれ各期1~2名の役員(後に評議員)を委嘱、会合を重ね、8月の総会で洲本高校同窓会の組織が確立し、校舎改築のための大募金運動が展開された。本会の組織体系は今も引き継がれている。